物としての建築にあきあきし、表層としての建築にも愛想が尽き、非日常性の表現としての建築への拒否が、バナルな日常生活の場としての建築をつくらせているのかもしれない。

 

ユーラリールの公園と既存の街区にファサードを与えること、かつ公園と道路を視覚的に繋げること、建築の行為がもともと存在する公園と道路の関係を維持すること、すなわち建築を取り巻く外部空間を人の生活する場として考え直すことからこのプロジェクトは始まった。

敷地を都市の断片として見たときに、道路を個々の建物の間にできるインターフェイスとして考えると、路自身が建物のファサード、塀、樹木等によってつくられた内部空間として、あるいはフラヌーの住処として機能する。ピロティーは公園にある木々を額のなかに入れ、階段のファサードは内部の風景の隙間から公園の緑を様々な角度で映しだすスクリーンである。持ち上げられた白い壁は透明性を得るためのオパシティーであると共に道路に正面性を与えている。同時に、この吊された壁は内部の歩道に光を導き、床から離れていることによって得られた視界は、樹木や街の風景が建物のなかに縁取られて内部の歩道と道路を繋ぎ、街の路とイメージをダブらせる。

 

コーリン・ロウの言う透明性には、虚の透明性と実の透明性がある。実の透明性はモダン建築の基本で、この透明性を抜きにしては語れない。そして透明性には重量感からの開放というモダニスム建築がもつ命題が含まれている。なぜ透明性かと言う問いに対しては、奥行きの問題と答えておこう。ある空間から別の空間への移行、ある場所から一枚のスクリーンを通して他の空間を知覚できる時、その空間は奥行きを増す。

 

 

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